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僕らなりのARINO-MAMA
アジサイの広場
ペー吉うき中3
 フィンランド北部ラップランドの森は、大自然が奏でるコンサート会場だ。
だが、その会場に隔離された客席はなく、蚊や蚋が観客に洗礼をあびせる。だ
からといって、帽子や薬などでそうした虫をはねのけては、自然と本当に交わ
ることなどできない。蚊や蚋も自然の一部であり、交響曲の一部なのだ。
 
 私はこういった主張には賛成しかねる。そもそも私はあまり外出を好まない
。いや、散歩をするのは好きなのだが、山や森といった自然に触れるのは嫌い
なのだ。それよりも、家でコンピュータをいじっている方が何倍も有意義だと
思う。例えば、今年の夏は暑かったが、私は家で扇風機(クーラーでないあた
りが悲しいが)に吹かれ蚊取り線香をつけて快適に過ごしていた。
 
 自然を遮断するのはよくない、という意見は理解できないことはない。我々
人間は確かに自然の中で進歩してきた存在であり、今も自然の生物だ。仏教を
開いた釈迦は、その身にとりついた虫を弟子が殺そうとしたとき、「虫が私を
刺すのも自然の巡り」と諭したそうだ。だが、ならばその虫を殺すのも自然の
巡りのような気がするが。サルがノミをとったりするのは自然でない行為なの
だろうか。
 
 つまり、我々は自然を全面的に受け入れるのではなく、不快な部分は拒絶し
てもいいのではないだろうか。私には実感できないが、多くの詩人が森は美し
いとうたうのだから、きっと森は美しいのだろう。多くの画家が山は壮大だと
描くのだから、きっと山は壮大なのだろう。ならば、その美しさは肯定しても
いいとは思う。だが、蚊は勘弁してほしい。本当の自然の美しさを知るために
そうした不快を受け入れねばならないとしたら、現代の文明を愛する人々には
本当の自然を奏でる歌は届かないのだろう。聞き手に不快を頼む芸術は美しい
だろうか?もちろん、私は自然を否定するわけではない。だが、かつての野生
のままの自然を求めるのはやめてほしいのだ。都市には都市の。文明には文明
の「自然」がある。蚊も蚋もいない、整然としてどこか寂しい都市の自然があ
る。
 
 <font
color=seagreen><i>「…夜の風はどこまでも優しく…人の隙間をすり抜けて、
 
 B’zの「The Wild
Wind」の冒頭だ。街の中の自然も、ここまで美しく物悲しく歌い上げることが
できるのだ。文明のもたらす様々な「快適」と共に過ごす我々は、古くて汚く
そして美しい、そんなありのままの自然からは遠ざかってもいいのではないか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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