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瞬獄殺
イチゴの広場
GTOえま中3
 文章を読んでいて、いっていることが全面的に肯定されるのではない、また
、当面必要なことでもないけれども、じっとしていられないような興奮を覚え
ることがあって、そういうとき、「刺激
的」という形容詞が使われる。「刺激的」とはどういうことか。
 
 かりに、本を円周のようなものだと考えてみる。読者はゆっくりその円に添
って走り出す。だんだん速度が加わってくると、はじめのように円に即してい
るのが困難になり、カーブでは外へ飛び 出そうとするかもしれない。
 
 「刺激的」とは、そういうカーブをたくさんもった本ということになろう。
 
 読者が予期するようなところへ展開するなら、快感はあっても、刺戟はすく
ない。逆に、読者の意表をつくようなことがつぎつぎあらわれると、読者はそ
の都度、タンジェントの方向へ飛び出そ
うとして、そこに緊張をかもし出す。それが刺戟的と感じられる。
 
 脱線しかける線の危険もないかわり、軌道の外へ出たくても出られない。無
理なカーブを大きなスピードときに創造のエネルギーが生まれる。直線レール
の上を静かにおとなしく走っていれば脱で走り抜けようとすれば脱線するかも
しれないが、そこに、新しい道のできるチャンスもある。安全な軌道を選ぶか
、危険なカーブの多い道を選ぶかは好みにもよるが、発見に便利なのは脱線の
可能性の小さなルートを走ることである。
 
 かりに大きなカーブがあってもスピードがなければ脱線しない。安全運転だ
けを目標とするのなら、脱線しないのは喜ぶべきことだが、新しい道をつくる
には、軌道の上だけ走っていたのでは話
にならない。無理なカーブなら脱線して、より合理的な近道を発見することが
できるはずである。脱線するにはスピードを出している必要がある。これは自
 
 「盲、ヘビにおじず」ということわざがあると思います。(たぶん?)謙虚
さは必要ですが、謙虚なだけでは世の中は進歩しない。世の中が安定すればす
るほど、謙虚さよりも師をのりこえる勇気が必要になるのだと自分は思う。
 
 レベルの高い学校の卒業生を指名したいだろう。なんとなく安心なのか、そ
のあたりの理由だろう。しかし自分はレベルなんて何にも関係ないと思う。い
くら頭が良くたって、もしその人が、ずっとひかれたレールのうえだけを歩い
てきた人だったらいやだ。やはりどんな場合でも対応できる人というのがいい
と思う。「自分の事?」彼らはいろいろな道を脱線して、良い道を発見したこ
ともあれば、時には失敗したことだってあっただろう。様々な場合に対応でき
る人とはこういう人なのである。脱線せずに指示どうりに進んできた人という
のは、皆が学べる事は学べるが、それ以上の自分にしかできないことというの
が見つかりにくいだろう。脱線しないで人生歩める人なんてこの世には存在し
ないんだー。
 
 完璧な人間はいないのだから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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