学力の「幻想」と日本の社会 |
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学力の「幻想」と日本の教育 矢崎 温子 |
テストの点数や通知表の評価は、一つの評価の基準として、あくまでその人 |
の一面を示しているにほかならない。しかし、我々は口では「人間は皆それぞ |
れよね、それぞれに良いところがあるのよね」と言いつつ、実際は気づかぬ内 |
に、その「学力」という評価に固執しているのである。そのため学生は点数を |
とることに努力し、その内容がきちんとつかめたのか、使えるのかということ |
にはこだわらないし、定着せずに終わってしまう。先生側もまた然りである。 |
生徒を卒業させしさえすればいいのである。 |
日本の教育は基本的に男女平等であるし、戦後の日本の成長を促した一つの |
要因でもあるから、悪いことばかりではないのだが、一つ英語教育を例に挙げ |
てみる。日本の現状では中学生から始まり、義務教育の高卒で少なくとも六年 |
間、大卒で十年間、英語を学習していることになる。その間に学生は多くの文 |
法、表現方法、自己紹介のし方を習得している。しかし、それが実際に使えな |
い、話せない、生かせないという宝の持ち腐れ現象になってはいないだろうか |
。それでは学歴は本当に形のない、見せるだけのものだと言えるだろう。つま |
り、皆テストのために勉強するようになってきてしまっているのである。 |
その点数だけとればいいという傾向は、転じてこれまでの社会の道徳や秩序 |
を欠如させ、そして多くの問題、例えば複雑な犯罪の低年齢化や大学生の学力 |
低下を発生させ、大人を驚かせていると言えるだろう。 |
特に最近テレビや紙上で大学生の学力低下が叫ばれているが、私は「学力が |
低下している!なんとばかげたことか!私の時代はそうでなかった!」と言わ |
んばかりに述べる人々の高慢さはひどいものだと思っている。その人達が学ん |
でいたものが正しい、あるいは絶対的であるとは言えないし、実際、その人達 |
自身が大学の肩書きを持ち歩き、学力の「幻想」に浸っているからだ。そして |
なにより学び、大学を出た人々がこの社会をつくりだしてきたといえるのでは |
ないか。社会問題の全てを大人に押し付けるのではない。しかし自分はいいの |
だと棚上げせずに、自分もこの社会を作り出してきた一人と認識する必要があ |
ると思う。人はどんなに学んでも結局無知である。ちょっとした差があるだけ |
である。それなのに学力というラインをしいて、人を見たり、判断したりしよ |
うとするからそういうことがおこるのである。 |
社会が変わっていくのは当然のことで、そういった現象も一つの流れ、過程 |
にすぎない。それに惑わされることなく、「人それぞれに良いところがある、 |
個性は伸ばすべきだ」というなら、評価のし方やテストのあり方も今までにと |
らわれず、新旧大切にし、その方針に相応しく、必要な教育を皆で目指すべき |
だと思う。大人と子供がにらみあっているような世の中では何も生まれない。 |
人が生きている限り、明るい未来が待っているのであり、悲観する必要はない |
のである。 |