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A氏は、まず
アジサイの広場
武照あよ高2
 真っ暗な闇。そこに二羽の足の長い鳥が映っている。そしてその中央に次の
ような言葉が白抜き文字で書かれている。
 
 娘の「ダイキライ」は「大好き」と同じ。いやはや言葉って本当に難しい。
伝えたいなあホントの気持ち。
 
 これは雑誌に載せられていたジェイ・フォンの広告である。肝心の携帯電話
については隅の方に小さく書かれているに過ぎない。最近の広告を見ていると
、物が前面に出された広告が値\とても少ないことに気付くであろう。茶漬け
や味噌汁の宣伝にしろ、そこで宣伝されるのは製品の味や栄養ではなく、真剣
に食べる人の姿である。専らそこにに示されるのは、物を購入することによっ
て得られる新たな「生活」であり「環境」なのである。
 
 しかしマスメディアは我々に宣伝を通して豊かな生活を提案すると共に、多
くの幻想を作り出してきた。二、三年前、抗菌グッズが論議を呼んだことを覚
えている人も多いであろう。その中で抗菌ペンを宣伝した広告部部長は、抗菌
ブームを振り返って次のように話す。「現在、ペンはデザイン、用途共に飽和
状態にあります。その中で市場に売り込んでいくためには新たな付加価値が必
要だったのです。」抗菌ペンの登場は、これまでのペンが「不潔」であったこ
とを我々に認識させる。「きれいさ」の宣伝が「汚さ」という幻想を生み出す
のである。アメリカは湾岸戦争で世界を味方に付けるために、油塗れの海鳥の
映像を作り、流した。強調しておくべき点は、宣伝は作る側の意志に依ってい
るということである。近年の、物の見えない、そして一見無主張な広告の生み
出す幻想が、我々の意志を動かし得る、いや動かしていると言うことを我々は
知っておかねばならないだろう。
 
 現在の広告が「物離れ」をしている背景として、一つには物の品質の平準化
がある事はよく指摘されるが、もう一つマスメディアの体質の変化があったの
ではないだろうか。マスメディアは本来、情報伝達の手段である。現実のもの
を現実のものとして伝えることが役割であったし、我々もそう受け取ってきた
。しかし映像技術の進歩はブラウン管の内部の世界をバーチャル化した。我々
もテレビ画面に映し出される世界を全くの現実と思っていまい。それが、物を
物として主張する宣伝が、物に関する幻想を我々に見せる宣伝に移行した一つ
の流れであったように思われるのである。
 
 確かに宣伝で示される幻想が、商品を得た我々の「豊かさ」に結びついてい
る面があることは事実であろう。人間の豊かさは、多くの場合、社会の「豊か
さ」のイメージに支えられているのである。しかしその幻想が我々のイメージ
に沿うならば受け入れられているという点に私は恐ろしさを感じる。湾岸戦争
の例にしろ、グリーンピースがアザラシ禁猟のために、アザラシの死体を使っ
て広告を仕立て上げた例は、広告による幻想が人々にいかに簡単に受け入れら
れるかを示している。
 
 宣伝の「物離れ」が作り手の、物を売るための幻想を生み出すのではなく、
我々の「ホントの気持ち」に結びつくこと願ってやまない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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