2007年2月の調査で、世界中のブログで使われている言語のうち日本語が37パーセントで、英語の36パーセントよりも多いという結果が出ていました。
その後、ブログの言語別人口で同じような調査が行われていないのは、日本語の割合が更に増えているだけなので、調査に興味がなくなったためだと思われます。
twitter(ツイッター)でも同じような調査が行われ、2010年2月の時点で、日本語が14パーセント、英語が50パーセントという結果が出ていました。しかし、2010年1月の時点で、世界のツイッターユーザーに占める日本人の割合は1パーセントわずかに上回る程度でしたから、おおまかに言うと、日本語は、英語など他の言語に比べて14倍も情報発信力があるということだと思います。
facebook(フェイスブック)では、まだ日本人の割合が少ないし、同様の調査がないようなので、どうなるかはわかりませんが、私はたぶん、ブログやツイッター以上に日本語の占める割合が大きくなるのではないかと思っています。その理由は、ブログの利用は、自分で何かの情報を発信したいという人に限られていただけですし、ツイッターの利用は、ある程度時間の余裕のある人に限られていたと思いますが、facebook(フェイスブック)は多くの人にとって日常生活に必要なプラットフォーム(土台)になっていくと思われるからです。
なぜ日本語にこういう情報発信適性のようなものがあるかというと、ひとつには、日本語が英語など他の言語と比べると、1文字あたりに盛り込める情報量が多いからです。ツイッターの利用者の中に、日本語と英語で同じ内容を別々にツイートしている人がいます。日本語は日本人の知人向け、英語は英語圏の知人向けと使い分けているようです。その日本語と英語の140字以内の文章を見ると(ツイッターの文字制限は140字)、ざっと見て、英語では日本語の半分の内容しか盛り込めていません。つまり、日本語を使えば140字の内容が書けることを、英語を使うと日本語の70字ぐらいの内容のものしか書けないということです。
もし、日本語のツイッターが70字という文字数制限になったとしたら、利用の度合いはもっと減るでしょう。70文字だと、何かを論じるというよりも、文字どおり「つぶやく」とか「さえずる」とかいう程度のことしかできなくなるからです。
しかし、70字という文字数制限であったとしても、日本には31文字の和歌の文化がありますから、日本人は意外にもその文字数に適応してしまうかもしれません。文字の持つ情報量の面だけでなく、どうやら文化の面からも日本語は情報発信適性があるようなのです。
facebook(フェイスブック)で、先日、会員数が多いと言われるコカコーラの会員になってみました。すると、コカコーラのfacebook(フェイスブック)ページから、ときどき宣伝用の投稿が入ってきます。そして、その投稿のコメントが世界中から瞬く間に1000件ぐらい入ります。
私もコカコーラの投稿記事にコメントを書いてきましたが、日本語で書いてある投稿はほかになく、すべて英語など欧米の言語によるコメントでした。しかし、それらのコメントの内容は大部分が、叫び声のような感じを受けたのです。日本人が普通コメントという言葉で連想するような味のある内容はあまりありませんでした。しかし、それも、文字の持つ情報力が日本語の2分の1だと考えると、納得できるような気がします。
インターネットというインフラは、アメリカが中心になって世界中に広がりました。アメリカは、このほかにも、民主主義の政治体制と市場主義という経済体制を世界中に広げることを自分の使命としていたようです。私は、このアメリカの役割を、織田信長の天下布武と同じような性格を持つものだと思いました。天下に共通のレールを敷く、そのために、抵抗する既存の旧勢力は有無を言わさず排除していく、そういう役割だと思ったのです。
では、アメリカが世界中に共通のインフラというレールを敷き終えたあと、そのレールの上を走るものは何なのでしょうか。そのレールの上を走る中身こそ、文化というコンテンツで、その文化を運ぶ列車にあたるものが言語です。
こう考えると、日本語の持つ情報発信力は、同時に文化発信力でもあると言えるのです。
言葉の森のfacebook(フェイスブック)ページの中で、今、毎日、作文の勉強会を開いています。(これは、だれでも自由に参加できます。facebook(フェイスブック)で「教育の丘コミュ」というグループを検索して参加ボタンを押してください)
作文の勉強会と言っても、ちょっとした言葉遊びのようなもので、比喩の練習とか、名言の練習とかいうものを、半分以上お笑いネタでやりとりしていくものです。
私は、この言葉遊びをしながら、わずか数語か十数語で読み手をうならせるような味のあることが書ける文化というものは、日本以外にはほとんどないのではないかと思いました。
facebook(フェイスブック)の利用者に日本人が増えてくると、こういう文化のコンテンツがますます広がっていきます。facebook(フェイスブック)における日本語の占める割合は、ブログやツイッター以上のものになるでしょう。
世界中に流れる情報のかなりの部分(たぶん英語と匹敵するぐらいの部分)が日本語になり、しかも、その日本語の情報の中身が単なる伝達や連絡のようなものだけではなく、文化的な創造を伴ったものだということになると、どうなるでしょうか。
まず、世界中のエリートから、「これからは、子供に日本語を学ばせておかないと、世界の新しい文化に乗りおくれることになる」という意識が生まれてくると思います。ビジネスにおける打ち合わせは、世界共通の英語で行うとしても、文化的な創造を伴うものは、日本語を学んでいないと遅れをとるということが次第に世界中の知識人の共通認識となっていくのです。
しかし、それは同時に日本語の危機になる可能性もあるのです。
先にも書いたように、アメリカの文化は、標準化の文化です。アメリカ文化が生んだ自動車、コンピュータ、インターネットなどは、いずれも入れ物や通路というインフラでした。また、コカコーラ、マクドナルド、ケンタッキーフライドチキンなども、その本質は売られている商品の中身というよりも、売り方のシステムでした。つまり、アメリカの文化は、大量生産化、ブランド化、フランチャイズ化、マニュアル化というビジネスモデルや方法の文化だったのです。
この標準化が、言語に関しても行われるようになると、日本語は情報発信性のある言語だから世界中の人がもっと使いやすいように標準化しようという動きが出てくる可能性があります。例えば、日本語50音表のうち、タチツテトの部分は、タティトゥテトとツァチツツェツォに分けた方が合理性があるとか、ワ行は新たにワウィウゥウェヲという言葉にしようとかいう案です。
この標準化の圧力に対して、言語の持つ文化性を保つ力はどこにあるかというと、文化性を主張する中にあるのではありません。標準化の主張と文化性の主張が対立して議論した場合、その議論そのものがすでに標準化の発想の枠内にあるからです。
文化性は、言語の持つ芸術性の中にあります。日本には、万葉集や古今和歌集などに見られるような大衆的な言語芸術の伝統があります。
しかし、現代日本語には、まだそのような大衆性のある芸術は生まれていません。
日本語が世界言語となる時代に大事なことは、日本人が現代日本語による新しい大衆性のある芸術を作り出していくことなのです。