MOOC(Massive Open Online Courses 大規模公開オンライン講座)の動きが世界的に広がっています。世界水準の優れた教材と授業が、ほぼ無料ですべての人に開かれるようになるという動きです。すると、今後、その優れた授業を受けるための、つまりよりよい学校に入るための塾や予備校は不要になっていくことが考えられます。しかし、現在起きているのは、塾や予備校が不要になる前の過渡期における、塾や予備校のMOOC化です。
これまでの教育は主に、いかに学ぶかではなく、いかに合格するかということを目標としていました。現在のMOOCは、まだその方法は革命的でありながら、その立脚している土台は旧社会のものです。つまり、MOOCの講座の修了証が企業への就職に役に立つ、あるいは企業が優れた人材を採用するためにMOOCに出資するという、企業社会の枠内での大学教育の変革となっているのに過ぎません。つまり、よい会社、よい仕事、よい給与のための大学の予備校化の中で発展しているのがMOOCです。
この教育の変革運動は、今後急速にグローバルに広がり、世界の大学教育は、大きな変容を迫られます。しかし同時に、このMOOCとは正反対の動きも広がっていくのです。それは、ひとつの理由としては企業社会がこれから変容していくからです。もうひとつの理由は、何を学ぶかということ以前に、いかに学ぶかということが教育の焦点になってくるからです。
企業社会の変容ということについては、今後の世界の大きな変化を考える必要があります。既に、アメリカドルのデフォルト、中国バブルの崩壊は、多くの人に予測されています。それは、偶然に起こる何かの事件又は事故をきっかけに、一気に誰の目にも見える形で現象化するでしょう。
しかし、それらの破綻に対する対策は既に考えられているはずです。それは例えば、徳政令、中央銀行の国有化、政府紙幣の発行、国際機関による国際通貨の維持、あらゆる技術公開と情報公開などです。その結果、その後の社会では、不要になるか縮小されるかする産業が出てきます。また、一時的な物価高とそれに対応するための配給制、生活保護の拡大が起きてくるでしょう。短期的には高付加価値産業が衰退し、長期的には価値を創造しない産業が衰退していきます。
その破綻とそれの続く復興のあと、何が起こるかというと、工業生産はやがてすぐに立ち直り、生産と生活のインフラを提供するようになります。そして他方、農業、教育、政治、医療の分野で、自給自足化の流れが生まれます。この自給自足化の流れが、第二の「いかに学ぶか」に結びついているのです。
MOOCは、優秀な能力を持ちながらその能力に応じた教育を受ける機会を持たなかった若者に、世界レベルの優れた教育を受ける機会を提供しました。しかし、ここで新たに問題になってくるのは、どうしたら優秀になれるか、つまり、「何を学ぶか」以前に、「いかに学ぶか」ということになるのです。これが、小中学校の教育の課題であり、更には、幼児教育の課題になります。
幼・小・中の教育のスタイルを、MOOCになぞらえて言うならば、SOOC(Small Open Offline Courses 小規模公開オフライン講座)と言うことができるかもしれません。スモールとは、幼・小・中の教育は、優れた教材や授業によってではなく、身近な指導者、手作りの教材によって多様に行われるべきだからです。というのも、中学校までの義務教育の内容は、根本的に難しいことや時代の先端につながるようなことはなく、既に確立されていて誰でも理解できる基本的なことが中心になるからです。
しかし、現代の画一化された一斉授業のもとで、基礎教育は、上の方向にも下の方向にも授業に合わない子を生み出し、子供たちの間に格差を生み出しています。だから、これからの教育の目指す方向は、土台は家庭と地域のオフラインになり、しかし、優れた教材はオープンかつオンラインでどこからでも自由に利用できるものになるでしょう。
そして、それらの教材は、それぞれの家庭や地域で容易に手作りで編集できるものになります。幼・小・中の教材は、誰でも編集に参加でき、誰でも自由に利用できるものになります。同じような動きが、教育にとどまらず、農業、政治、医療の分野にも起きてくるでしょう。そして、これらの発展のあとに生まれるものは、文化の自給自足化です。それは、文化の自主的な創造化と言ってもよいでしょう。
例えば、俳句、茶道、華道などは、生活の必要から必然的に生まれたものではありません。個人の好みが発展して、普遍性を持つ文化になったものです。同様のことがこれから、文化の大爆発現象として起こることが考えられます。
一方で、機械化されインフラ化された工業と工業的農業があり、その生産力を土台として、多様で自主的で創造的な文化産業が成り立ちます。
そのとき、人は、これまでの半分は消費者であり半分は給与労働者であるような時代を去り、自らが文化創造的な生産者であるような時代に入ります。
そして、それに伴って、教育も、創造性のための教育に変わっていくのです。