●国語力は問題を解いても身につかない
国語力は、国語の問題を解いても身につきません。算数・数学は、解けなかった問題の解法を理解すればできるようになりますが、国語はそうではありません。
その理由は、算数・数学が答えが一つに絞られているのに対して、国語は答えの可能性がいくつもあるからです。例えば、選択問題でも、選択肢の一つの文の中に、合っているところと違っているところが微妙に組み合わされています。ある選択文の始めの方は合っているが、後の方に違うことが書いてあるという選択肢になっているのです。
しかも、その合っているところと違っているところが、わかりやすく書かれているのではありません。同じ表現で合っているところ、違う表現だが合っているところ、同じ表現だが違っているところ、違う表現で違っているところという書き方になっているのです。
選択問題でさえ、このように答えに広がりがありますが、記述問題では更に答えの幅が広がります。作文の問題では、それ以上に答えの範囲が広がるのです。
●国語力の本質は読む力と書く力
国語の得意な子の多くは、国語の勉強をしていません。得意なのでわざわざ勉強をする必要がないからです。では、どうして国語が得意になったかというと、それは読書によってです。読書によって読む力がついたので、国語の問題も自然に解けるようになったのです。
国語の勉強というと、漢字の書き取りや読解の問題を連想しがちですが、漢字の書き取りでも、読解の問題でも、読む力はつきません。読む力は、文章を読むことによってついてくるのです。
しかし、読書による国語力では、学年が上がるにつれて伸び悩む人も出てきます。それは、国語力の中に難しい文章を読み取る力が求められるようになってくるからです。易しい物語の本を読んでいるだけでは、難しい説明文の読み取りはできるようにはなりません。
読書はもともと楽しみのために読むものですから、易しい物語の読書ももちろんいいのです。しかし、その易しい読書と並行して難しい読書もしていく必要があります。
易しい文章と難しい文章の差は、主に語彙の差です。難しい文章には、より抽象的な語彙が使われています。読む力がつくというのは、その抽象的な語彙を実感として感じ取れるようになることです。すると、その語彙力によって読む力と同じように書く力もついてくるのです。
国語力の本質は、この読む力と書く力です。
●難しい文章を読み書き考える勉強法
言葉の森の勉強法は、難しい文章を読み取る力をつけるところから始まります。その学年の生徒が普通に読む文章より一段階上の文章を毎日音読します。文章は、もともと理解されるように書かれています。難しい言葉があったり、馴染みのない表現があったりしても、それを音読で繰り返し読んでいると、その文章の全体像がわかってきます。
国語力は、部分から全体に進むのではありません。漢字や語句の勉強の積み重ねで全体の文章を読み取る力がつくのではなく、先におおまかな全体がわかり、そこから個々の部分がわかるようになります。これが、部分から全体に進む算数・数学などの勉強法との違いです。
全体を読み取る力をつけるためには、まず繰り返し読むことです。繰り返し読むためには、音読をする必要があります。繰り返し読んで自分なりに理解したことを、家族に話して説明します。このアウトプットによってインプットが確実なものになります。そして、家族との対話によって文章の上だけで理解したことが、より具体的な実感を持って理解されるようになります。それをひとまとまりの文章として書くのが、言葉の森の感想文の勉強です。
こういう勉強ができるのは、言葉の森の指導が、担任の先生からの毎週の電話によって行われているからです。
●生涯役に立つ本当の国語力をつける
読む力は、あらゆる学力の基礎となります。
現代は、新しい知識や技術が次々と生まれ、それがまたたく間に世界中に広がるという情報化の速度が高まった時代です。この社会で生きていくためには、学生時代の勉強の知識だけでは不足します。社会に出てからも新しい知識を読み取りそれを自分なりに表現する力が求められてきます。
言葉の森の読解と作文の勉強は、社会に出てからより一層役に立ちます。それは、読むことや書くことが苦にならず、むしろ読む楽しみ、書く楽しみを持つことができるようになるからです。
現代は、情報化の進行に伴って、ものごとをビジュアルに表現する技術が発達しています。しかし、それによって目で見てわかりやすいものでなければ理解できないという人も増えています。どの分野でも、ものごとの本質に迫るためには、文章による理解と文章による表現が欠かせません。
言葉の森の国語の勉強は、単に学生時代の国語力をつけるだけでなく、社会に出てからの国語力をつけることに役立っているのです。