キョウチクトウ
5月の森リン大賞が決まりました。
https://www.mori7.com/oka/moririn_seisyo.php?nenn=2023&tuki=05
代表的な作品をいくつか紹介します。
読みやすくするために、作品は、段落の間を1行空けています。
また、ワードの仕様で段落のマスが消えているものは追加しています。
点数は、森リンの総合点です。
総合点は、語彙の広さ、語彙の高さ、語彙の深さ、語彙間のバランスで決められています。
語彙の広さは表現語彙、語彙の高さは思考語彙、語彙の深さは知識語彙と呼んでいます。(2013年特許第4584158号)
(総合点91点のそれぞれの語彙の表示)
森リン大賞は、それぞれの学年課題の点数が上位の作品から選んでいます。
大体が1位の作品ですが、内容の評価も加味して2位以下の作品が選ばれている場合もあります。
▽参考記事
森リン点の解説(1)――高得点の作文はどのようにして書くか
https://www.mori7.com/as/4526.html
7月から、作文用紙と封筒用紙を廃止しましたので、今後、高学年の生徒の森リン点への参加が増えると思います。
毎日の森リン点は、
ランキングのページの
森リンランキングに表示されています。
●小学5年生の課題の部
機械と人間 きょうすけ 79点
人間を科学的に知ろうとすると、えてして人間を、機械のように考えようとする傾向がある。人間は機械と同じなのだろうか。人間は複雑な機械にすぎないのだろうか。変わってゆくのが人間だが、それは、ただ変わるのではなくて、進歩し、高等になってゆくのだと筆者は述べている。
ぼくにも似た話がある。ソフトボールの自主練習で、シャトルを打つ練習をしていた。いつもはお兄ちゃんが、シャトルを投げてくれるけれど、今日はお兄ちゃんがいないから、シャトルマシンで練習する。
「ウィーン。ポン。」
と、シャトルが出てくるときに音がする。ぼくは、そのシャトルを打とうと思ったが、
「ヒュー。」
と、風に流されて、まるでカーブのように全く違う方向に飛んで行ってしまった。ぼくは、お兄ちゃんが投げてくれたら、風の強さを考えて、いいところに投げてくれるのになと、不満に思った。他にもある。たまに、つまって出てこなくなったり、二つ一気に出てきたりする。それから、マシン付近に、シャトルが落ちたりもする。お兄ちゃんだったら、テンポよく投げてくれるし、そんなに的が外れたシャトルは来ないのになと、少し落ち込んだ。シャトルマシンには、一人でできるという長所があるけれど、そのぶん、コントロールや、テンポのところなどのところが劣っているということに気付いた。ぼくは、人間は時と場合によって行動を変えられるけれど、機械は、プログラムされたことしかできないから、やっぱり人間の方がいいなと思った。
もう一つ似た話がある。NHKで、ニュースを見ていた時の話だ。ぼくは、そんなにニュースに対して、気にしていなかったが、アナウンサーが、
「ここからは、AIがお送りします。」
と、言ったので、ぼくは、
「えぇー。」
と、テレビの方を見た。すると、テレビの右上に、「AI自動音声でお送りしています。」と、書いてあった。実際に声を聞いてみると、人間がしゃべっているより、テンポが良くて、つまったり、かんだりしないけれど、ぼく自身は、少し気持ち悪いと思った。なぜかというと、少しも間違えたりしないし、同じ高さの声で呼んでいるからだ。また、プログラムされたことしか言えないから、地震速報などの早く知らなければいけない情報が伝わらないからだ。ぼくは、失敗するところがあっても、やっぱり人間の方がいいなと思った。
この話を読んで、ぼくは、機械は人間よりすごい面がいっぱいあるけれど、その機械を作ったのは人間で、プログラムしたりするのも人間だから、人間はすごいと分かった。ぼくは、決して機械に頼ることなく、自分の意志を持って生活することが大切だと思った。
●小学6年生の課題の部
日本語の国際化 ポッポ 83点
今、私たちは日本語を日常生活で特に苦も無く使っているが、実は2017年アメリカ合衆国国務省によって英語を母語とする人にとっては日本語は世界一難しい言語だと認定されたのだ。外国人からはまるで悪魔の言語のように難解なのでデビル言語とも呼ばれたりするそうだ。そこで、普段日本語の難しさを意識することはあまりない私だけれど、外国人の視点から日本語の難しさを紐解いてみたいと思う。
まず一つ目は教科書などで習う文法が無視されていることだ。例えば「Do you want some cookies?」を直訳すると「あなたはいくらかのクッキーが欲しいですか?」となる。しかしそのように言われたら思わず身構えてしまうし日常生活では「クッキーいる?」などと聞く。私たちにとってはそれが普通に聞こえるけれど一生懸命に文法を勉強してきた外国人がそれを聞いたら今までの文法がことごとく無視されていて愕然とするだろう。二つ目は一人称が多すぎることだ。私が知っているだけでも10種類くらいはあるのに、英語では「I」「me」くらいなのだ。きっとどの一人称を使えばいいのか混乱するだろう。私は今まで「うち」だったり一時期「ぼく」と呼んでいた。しかし最近一年後には中学生にもなるのにそれは恥ずかしいと思って「私」に直し始めた。すると友達に「え、かずはどうした?なんかあった?」と心配をされた(笑)。このことから日本人は一人称によって自分のキャラを演出していると分かった気がした。
先日、岡倉天心美術館で彼の人生を顧みる機会があった。岡倉天心といえば、明治時代の初期、西欧文化が推進される真っ只中で日本画・日本文化の復興を試みた人物だ。ボストン美術館の館長にまでなり得たのは彼の持つ英語の堪能さも理由の一つであろう。頭の中で、まず英語で簡潔に捉え、日本語に訳し、さらに英語で執筆することが得意中の得意だったという。今でも海外に於いて日本文化を捉える本として有名な「茶の本 the book of tea 」を執筆した彼は、アートを通し、日本語が国際普及の言語となるよう指導者足らんとしてくれたのではないだろうか。私たち日本人は、岡倉天心とまではいかなくとも、日本語の神髄を学びつつ海外の視点も取り入れて、誇り高くシンプルに世界に言語を発信してゆく必要がある。
言葉とは人間にとってより自分を細かく表現するための道具である。なので自分の意志が日本人には伝わったとしても外国人に伝わらないのでは言葉が存在する意味がない。しかし日本語は世界で一番習得するのに困難な言語である。その理由の一つとして日本語がややこしく複雑であることがあげられる。より国際普及の日本語にするには「大の虫を生かして小の虫を殺す」という諺があるように外国人がより習得しやすいように不要な部分を切り捨ててさっぱりさせる必要がある。それは日本古来の華麗な表現を放棄するのではなく、あくまで文法を整理する必要があるということだ。