↑ ドングリの木、マテバシイ
20世紀は、アメリカ発のグローバル化の時代でした。その象徴は、マクドナルド、コカコーラ、自動車、IT、金融テクノロジーなどでした。
工業国としては衰退したアメリカは、金融による日本支配で覇権の延命を図りました。一時期は、実質的に日本が国力ナンバーワンの時代がありました。しかしやがて日本は老人国家になっていきます。その結果、現在、世界の覇権は、米国から日本を通り越して中国に移りつつあります。
しかし、中国にアメリカのようなグローバル化する文化はあるのでしょうか。中国は人口と領土で自国の影響力を強めています。しかし、その影響力によってどういう世界文化を広げるつもりかといえば、その中身はないようです。
けれども、今後、中国によるグローバル化が進展することは止められないでしょう。そのときに、
日本が中国のグローバル化に飲み込まれないようにするためには、どういう道を選択することができるのでしょうか。
アメリカは、マネーの力によるグローバル化を押し進めました。中国は人口の力によるグローバル化を押し進めようとしています。
日本には、日本文化を守るために鎖国をするという選択肢もあります。しかし、それは日本が年老いた風流人の箱庭国家になって衰退していくことです。未来の日本は、移民の流入も含めてグローバル化の流れは止められないという情勢のもとで考えていく必要があります。
そのときに問題なのは、守るべき日本文化の輪郭が不鮮明だということです。
明治時代、欧米文化に遭遇した日本には、和魂洋才という返し技がありました。それは、江戸時代に蓄積した膨大な日本文化があったから可能だったのです。
しかし、今の日本は敗戦によって文化の根を切られている状態です。大事なことは、曖昧でムード的な否定形の日本文化ではなく、明確で理論的な肯定形の日本文化を打ち立てることです。
日本文化がそのような普遍性を持つためには、つまり日本以外の人にも通じる文化となるためには、日本という特殊で具体的な条件を離れた抽象化が必要になります。
この抽象化は、主に言語によってなされるものですが、言語以外の抽象化もちろんあります。例えば、行為による抽象化というものがあります。只管打座、江戸しぐさ、トイレ掃除の文化などは、行為を通して伝える日本文化です。
21世紀のグローバル化には、四書五経のレベルの文化では不十分です。また、キリスト教や仏教という宗教のレベルの文化でも対応しきれません。現代の科学技術の成果をふまえた新しい世界観、社会観、自然観、そして、人生観、人間観を提唱する必要があります。
この新しい文化が、これまでの西欧のデカルト・ニュートン・ダーウィン・アダムスミス・マルサス的なパラダイムをのりこえた、新しい日本文化的なパラダイムになると思います。
そういうパラダイムの創造が可能なのは、日本文化が、これまでの歴史の中で穏やかな人間性と科学技術の先進性を両立させてきたという面を持っているからです。
中国を中心とした世界のグローバル化は止められません。日本は、土地や人口のグローバル化ではなく、文化のグローバル化を担う役割を持っています。この世界に広げる日本文化という道が、日本の文化を守りつつ世界の平和と発展に貢献する道です。
言葉の森の作文教室も、この大きな流れの中に位置づけて行っていきたいと思っています。
(この文章は、構成図をもとにICレコーダーに録音した原稿を音声入力ソフトでテキスト化し編集したものです)