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記事 1341番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
入試の作文の書き方(後半は大人の文章について) as/1341.html
森川林 2011/08/29 20:22 


 公立中高一貫校の入試では、「特殊な受験勉強を必要としない入試」という原則から、考えさせる問題を出しています。

 そのひとつが作文の課題です。

 その作文の課題も、最初のころは、身近な書きやすい課題が出ていましたが、最近はだんだん難しくなり、複数の文章を読ませて書かせる課題などもよく出ています。

 また、どういう切り口で書いたらいいかわからない問題もよく出されます。

 今回は、東京都のある公立中学の問題をもとにして、切り口の必要な作文課題の書き方を説明します。

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 次の詩を読んで考えたことを、あなたの経験を例にあげて、分かりやすく書きましょう。

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 顔ってね

 ないた顔 おこった顔

 笑った顔 ねぼけた顔

 いろいろあるの

 人間は

 そのいろいろな顔のおめんを

 次々にかぶったり

 ぬいだりしているの

====

 「子どもの詩」より

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 作文の課題が出されたときには、まず要求されているポイントが何かということをつかんでおくことが大事です。

 この課題の場合は、「あなたの経験を例にあげて」「顔」「おめん」などです。

 採点する人は、たくさんの作文を次々に読まなければならないので、このような言葉を使いながら書いていった方が読み手に親切です。

 例えば、自分の経験を書くときは、「私にも、似た経験がある。それは……」などと書くのです。



 この「詩の感想」のような課題のことを、言葉の森では、「象徴的なテーマ」と呼んでいます。はっきりした意見の是非を求められているのではなく、どのような書き方でも書ける課題だからです。

 こういう課題のときは、人間の生き方に結びつけて書いていくと意見を絞りやすくなります。

 例えば、(人間は、いろいろな表情をするけど、それはおめんだとも考えられる。だとしたら、悲しい顔、怒った顔をするよりも、できるだけ明るい優しい顔をして生きていけたらいいなあ)などと考えます。

 この場合の意見は、難しく考える必要はありません。よく、意見で独創性を出そうとする人がいますが、それは大人でも文章を書くプロでも難しいことです。人間の考えることは、だれでもほとんど同じです。意見で個性を出すのではなく、意見は平凡でもいいから、その裏づけになる実例と、文章を書くときの表現で個性を出していけばいいのです。

 そして、意見は、できるだけひとことで短く簡潔に言えるものにします。例えば、「私は、いい顔をして生きていきたい」などという意見です。このぐらい単純でいいのです。



 さて、作文は、いくつぐらいの段落に分けて書くか、最初に見通してを立てます。それぞれの段落は、同じぐらいの長さで書いていきます。

====

 第一段落は、身近な実例と意見を書きます。「私も、毎日いろいろな顔をしている。お母さんに叱られたときは、ちょっとすねた顔、友達と会うときは、明るい顔、難しい問題を解くときは真剣な顔。しかし、何もしていないときは、どんな顔をしているのだろう。もしかしたら……(などと実例)。私は、いつも明るい顔をして生きていきたい。(などと意見)」



 第二段落は、その意見を展開していきます。「そのために、ひとつには、いつも自分をふりかえる余裕を持つことだ。私は、前に、こんな経験をしたことがある。友達と学校からの帰り道に口げんかをして、そのまま家に帰ってきたときだ。母は私を見ると、『どうしたの。今日はそんなにこわい顔をして』と笑い出した。私は、そのとき……(などと実例)」



 第三段落は、展開のその2。「もうひとつは、顔の表情をおめんのようにとりかえるだけではなく、自分の心の中がそのままいい顔として表れるように、自分の中身を磨いていくことだ。『年をとったら自分の顔に責任を持て』ということを聞いたことがある。私は、まだそんなに年をとっていないが……(などと実例)」



 第四段落は、まとめ。「人間は、動物と違っていろいろな顔の表情ができる。それは、言葉だけではなく、表情によっても相手とコミュニケーションをしたいと思っているからだろう。だとしたら、顔は、自分のためだけでなく、相手のためにもあると考えることができる。私は、これから……」

====

 結びの段落は、いちばん印象に残るところなので、いくつか重要なコツがありますが、最低限、最初の段落の意見とずれていないことだけを確認しておきましょう。



 作文の書き方で大事なことは、以上の説明のように、構成をはっきりさせて書くことです。

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 ここで、話は変わって。

 今度は、子供の作文の書き方ではなく、大人の文章の書き方です。

 日本人の大人の人は、何か文章を書くときに、ぶっつけ本番で1行目からおもむろに書き出す人が多いと思います。

 この書き方だと、文章がうまく進むときと、そうでないときの差が大きくなります。趣味で書く場合にはそれでいいのですが、締切期限までにどこかに提出する文章なども同じような書き方で書くと、出来不出来に差が出て実力が不安定になります。

 あらかじめ書きたいことを何点かメモしておき、そのメモに沿って書いていくと、当たり外れなく書けるようになります。

 書き出す前に、最後の見通しまで考えてから書くのが過不足なく書くコツです。


 さて、小学校低学年の子で、長く書くことに異常に執念を燃やす子がいます。字が間違えていようが読みにくかろうが気にせずに、書けるぎりぎりまで書いてきます(笑)。

 長く書くのは意欲の表れですが、読む方は大変です。

 ところで、大人でも、このように長く書く人が結構います。日本の文化の中では、短い文章よりも長い文章の方が相手に対して誠意があるように見えるのかもしれません。

 しかし、現代のようにさまざまなコミュニケーションが飛び交う世界では、文章が長いということはあまり歓迎されることではありません。

 書いたあと、中身を少し削ってから送信するぐらいがちょうどいいのです。(この文章も長すぎたか (^^ゞ)

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記事 1340番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
無の文化と教育1 as/1340.html
森川林 2011/08/27 22:12 


 無の文化は、日本の社会においては、経済だけでなく、教育の世界にも流れています。



 日本の近代の欧米流教育は、有の文化の教育でした。教育の対象として「個人が有る」ということと、「その個人が身につけるべき何かが有る」という考え方が前提とされていました。

 その「身につけるべき何か」について、「何を」「どこで」「だれから」教わるのかと特定していったものが、教材であり、学校であり、先生でした。

 だから、現在の社会では、教育というと、教科書、学校、先生が不可欠であるかのように思われています。しかし、これは決して教育の本質にとって普遍的な要素ではなく、近代という時代の歴史に限られた要素なのです。



 もちろん、このような近代教育の採用は、日本が明治維新以降、西洋の文化という異質なものを急速に取り入れる必要があったために避けることのできないものでした。

 しかし、今日では、西洋の文化は、日本の社会の中にすっかり消化されて取り込まれています。これからは、日本が本来持っていた無の文化を教育の中に生かし、これまでの有の文化を包み込んだ教育を作り上げていく時期なのです。



 無の文化においては、人間は、個人として独立した実体であるよりも、社会関係の中で規定された相対的な何かとして見なされます。ある個人は、家族、地域、歴史、社会的役割などによって多層的に、その個人の外側から関係づけられた存在です。

 有の文化においては、教育とは、未完成な個人が何かを身につけていく過程でした。しかし、無の文化においては、個人は周囲の社会から既定された何かとして最初から完成されています。それは、あたかも、自然の中の動物が、生まれたときから完成されているのと似ています。

 例えば、ライオンやウサギは、教育を必要としません。自然の生態系の中で、自分の生きるポジションが決まっているので、よりよいライオンやウサギになるために、トレーニングに励むというようなことをしないのです。(あたりまえですが)



 無の文化においては、人間も、自然の生き物たちと同じように最初から完成している存在だと見なされます。

 しかし、人間は、成長の過程で、人間の自然にとって本来なくてもよい余分なものを身につけていきます。だから、それらの曇りや汚れを拭うために教育があるという考え方をするのです。



 有の文化の教育が「外にある何かを身につける教育」であるのに対して、無の文化の教育は、「内にある曇りを拭いとる教育」です。

 しかし、これはもちろん、何かを身につけることを否定するのではありません。外の何かを身につける前に、まず内の何かを拭わなければならないという考え方です。曇りを拭い続けているうちに、おのずから必要なものが身につくというのが、無の文化の教育の方法論です。

 例えば、日本では、技芸の修行をするときに、雑巾がけを5年、10年と続けながら、師匠の技を盗む、というようなことが行われます。

 有の文化の視点から見ると、このような教え方は全く非効率であるように見えます。しかし、ここに無の文化の教育の特徴があります。



 有の文化では、教えるものを特定します。Aという技術とBという知識を習得したあとに、Cを身につける、というような教え方です。それらを教えやすくするために、必要に応じて技術を更に細分化し、順序を決め、教材とカリキュラムを完備していきます。

 しかし、このような教え方をすると、教わるべき教育の内容が、教え手の教え方によって最初から偏っているということに気づきにくくなります。教育の内容が、特定化されることによって一面的になってしまうのです。

 また、教えることが特定されることによって、それをすべて身につけるということが可能になります。すると、限定されたものをすべて身につけることにより、慢心が生まれやすくなる一方、師匠の水準を超える弟子が生まれにくくなります。



 一方、日本のように雑巾がけをしながら技を盗むという教え方は、教える内容が教え手の主観によって一面化されていません。

 無の文化では、人間にはもともと自分の内側に完璧なものがあり、それを自分で悟るために、雑巾がけをしたり、師匠の技を盗んだりするという考え方をします。

 だから、進歩には際限がなく、永遠の完成を目指して精進を続けるという教育観が出てきます。そのときの教材は、自分であり自然であるのです。



 二宮尊徳の言葉に、「あめつちは書かざる経をくりかえしつつ」というものがあります。本を読んで、その限られた知識を身につけることが教育なのではなく、天地自然から学び続けることが教育だという考え方です。

 本居宣長は、「なぜ、日本には、インドの仏典や、中国の四書五経に匹敵する思想体系がないか」と問い、「それは、日本が、そのような事々しい教えを必要としないほど、いい社会だったからだ」と述べています。

 もし、教育において、教材が特定されていれば、その解釈をめぐって対立が生まれ、批判や論争が生まれ、最後は、物事の真実よりも、議論の巧みさや力関係の強弱によって正しさが決められるようになります。それが、今日の世界の支配的な宗教となっているものの現実の姿です。



 日本における無の文化の教育は、教材を特定して、それを教え込むというような方法をとりませんでした。人間は既に自分の内側に完全なものがあるから、それを自分で悟るために、日々精進し、師匠の技を盗み、天地自然に学ぶという教え方をしました。だから、教える人に必要なのは、教え方ではなく後ろ姿でした。



 ところで、曇りを拭うという無の文化の教育にも、方法論があります。人間はもともと完全な存在であるのに、後天的に、曇りや汚れや余分なものや不純なものを身につけます。その不純物を拭う方法として、日本の文化は、自然、喜び、反復などの方法を編み出しました。(つづく)

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無の文化(9) 

記事 1339番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
無の文化と経済 as/1339.html
森川林 2011/08/26 18:10 


 陰陽の文化というものも、無の文化を前提にして生まれています。

 有の文化と無の文化の違いを簡単に説明すると、有の文化は、その言葉のとおり、ある物事が「有る」というところを出発点にした文化です。

 デカルトの「我思う。ゆえに我あり」は、意識における有の思想ですが、物理的な物事に関しても、ある物を定義するのに、それが何かということを分析し細分化します。すべての「有る」にさかのぼる発想をするのが有の文化です。

 現代の日本人も、学校教育の中でこのような有の文化の洗礼を受けるので、ごく自然に、ある物事を考えるときに、それを分析する立場から見ようとします。

 しかし、日本の文化に本来あったものは、無の文化です。無は、物事を「無い」ものと見るところから出発します。ある物事が「無い」のに、それが物事として成立しているのは、その物事の周囲がその物事をその物事たらしめているからだという考えです。

 例えば、ドーナツの本質は、穴があることです。では、穴とは何なのでしょうか。それは、何も無いことです。しかし、単に無いのではなく、穴以外のものに取り囲まれていることによってその「無いこと」が穴として存在しています。

 ある物事が、その物事の「有」によってではなく、その物以外の「有」によって、つまりその「物」自体の無によって規定されるというのが無の文化の発想です。

 この無の文化がアジアの文化の背景にあり、そして、それは、この日本で最も深く根づいていたのです。



 陰陽の考え方も、この無の文化から来ています。陰は、陰だけで単独に存在するのではなく、つねに対比されるものとの関連で陰になります。だから、場合によっては他のものとの関連で陽になることさえあります。

 陰が極まると陽になるというのも同じです。過ぎたるは及ばざるが如しというように、ある「有」は、それを追求していくと、有の極まったところで無に転化します。しかし、その無を突き詰めていくと、再び無の極まったところで有に転化します。

 木火土金水の五行の関係も同じです。例えば、木は、単独で木であるのではなく、水からは生じられる関係で、金からは剋される関係で初めて木として存在します。

 風水も同じです。ある土地や物自体がよかったり悪かったりするのではなく、その土地や物が周囲の場所や状況との関連でよくなったり悪くなったりします。

 ところが、欧米の有の文化の発想は違います。問題になるのは、常にその物自体であり、他との関連は二義的です。まして、その物自体は「無い」のに、他との関係だけが「有る」というようなことは考えつきません。



 この欧米の有の文化が、世界の標準の考え方になってきたのは、わずかここ2、300年です。産業革命が成功し、市民革命が成功し、その圧倒的な軍事力と策略の力で、思想的な面でも、世界中の文化を有の文化に変えることができたのです。

 ところが、日本は、明治の開国と、太平洋戦争の敗北によっても、有の文化は社会に浸透しませんでした。日本人のものの考え方の根底には、今も、無の文化が生きているのです。



 欧米の有の文化は、世界に広がり発展するにつれて、次第にその限界を見せてきました。

 経済学の分野では、アダム・スミスが述べたように、「個人の利益を追求することが、社会全体の利益にかなう」という考え方が、実際に有効だった時代もありました。しかし、やがて、個人の利益という「有」がガン細胞のように際限のない増殖を始め、社会全体の利益に反するばかりか、自身の存立基盤をもむしばむようになったというのが、現代の金融資本主義という有の文化の行きついた姿です。

 それは、運営の仕方がたまたま悪かったためでも、民主的な規制ができなかったためでもなく、有の文化そのものが持つ限界だったのです。

 とすれば、現在の世界の政治的経済的行き詰まりを打開できるのは、日本及びアジアに残る無の文化ではないでしょうか。

 無の文化における経済の目的は、個人の利益という「有」を追求するためにあるのではありません。個人の利益を「無」と考え、相手の利益を豊かにすることを第一の目的とすることによって、初めて現代の人類の豊かな生産力をコントロールすることができるようになるのです。

 そういうことが果たしてできるのでしょうか。それができることを示したのが、日本の3.11の経験でした。



 日本は、世界で唯一と言ってもいいほど、無の文化が社会の隅々にまで息づいている国です。しかし、そうでありながら、欧米の有の文化の成果である科学技術、政治経済、学問教育の分野でも、本家の欧米以上の成果を達成しています。

 単に欧米の有の文化を否定するのではなく、自身の中にもある有の文化を生かしつつ、それをより大きな無の文化に包摂するというのが、世界史におけるこれからの日本の役割なのです。

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無の文化(9) 

記事 1338番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
「脱アメリカ時代のプリンシプル(原田武夫著)」を読んで―無の文化と日本 as/1338.html
森川林 2011/08/25 20:52 


 これは、教育の話を論じる予定です。出だしは、経済と政治の話ですが、根本にあるものを論じていくと、文化全体に通じるものになり、したがって、教育の話にもつながっていくのです。



 この本の中で原田さんは、現下の世界経済の動きを、欧米とアジアの文化的抗争という視点からとらえています。

 戦後、世界の経済力の中心であったアメリカは、1970年代から衰退を始めていました。当時、多くの人の目には、豊かな欧米と貧しいアジアという構図が映っていましたが、現実の経済の活力の点では、アメリカやヨーロッパに代わって日本がアジアの牽引車として台頭しつつあったのです。

 しかし、このアジア台頭の予測に危機を感じたアメリカは、経済的に発展する日本とアジアを、政治的に支配する道を計画し始めました。

 それは、ひとことで言えば、日本とアジアの生産力を欧米の金融によって合法的にコントロールする仕組みです。そして、アジアがこの支配から脱け出ないように、政治的には、アジアどうしを反目させる仕組みが残されたのです。そのひとつが、今も、日本、中国、韓国の間に残る領土問題や、政治的に醸成された国民どうしの反感です。



 著者の原田さんは、この欧米による金融支配を打破し、平和なアジアを築くために大事なことは、アジアの共通原理(プリンシプル)を持つことだと述べています。

 そのプリンシプルとは、日本、中国、韓国に共通する陰陽の思想だと言うのです。

 現在の政治と経済の問題を、数百年単位の文化のサイクルの問題として考え、欧米の文化に対置するアジアの文化を陰陽の思想と考えたのは、歴史の本質を独創的にとらえた見方です。



 私は、日本及びアジアの文化の特徴を、陰陽の文化の更に先にある無の文化としてとらえています。それは、具体的には老子の無の思想、日本文化における無常観などとして考えることもできますが、もっと広く文化の全般にわたって流れているものです。

 日本及びアジアの文化を無の文化と考えることによって、陰陽の思想も、また、政治、経済、科学、教育も、新しい視点で見ることができるようになるのです。(つづく)



【参考】カテゴリー「知のパラダイム」
https://www.mori7.com/beb_category.php?id=45

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無の文化(9) 

記事 1337番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
日本の強さを支える「国語力」 as/1337.html
森川林 2011/08/24 17:40 


 「大東亜戦争の正体」(清水馨八郎著)という本が、この7月に祥伝社から出ています。著者の清水さんは、1919年生まれですから、現在92歳です。

 この本には、戦後のアメリカ主導の教育に染まる前の日本の知識人による、日本人が本来持っていた考え方が書かれています。

 この中で、著者は、日本の強さを支えた力をいくつか挙げ、その中のひとつとして「国語力」の大切さを述べています。

 日本の学校では、小学校で1000字の教育漢字を習い、中学で2000字の常用漢字を習います。そして、高校卒業までに約3600字、社会人は一生のうちで5000字の文字教養を持つと言われています。

 これに対して、欧米では26文字のアルファベットしか習いません。

 その結果、日本語では、長い言葉を省略するときに、日教組、全学連、経団連などと漢字を組み合わせて作ることができるので、その言葉を見ただけでどういう中身か大体の見当がつきます。

 一方、英語ではIBM、FBI、OECDなどという略語しか作れないので、その時代の人にはわかっても、次の世代の人には教えられなければ理解できません。

 実は、この違いは、ものごとの理解を深めるという点で意外と大きいのです。日本人は、日本語を学ぶことによって、最初から理解のための優れた道具としての言語を身につけてきたのです。

 そう考えると、英語教育に対しても、日本人がこれからどういう姿勢で臨んでいくべきかということがわかります。

 日本語は、きわめて優れた乗り物ですが、日本人以外の人にはなかなか乗りこなせません。それに対して、英語は、日本語に比べると性能の悪い乗り物ですが、世界中の人が使っています。だから、コミュニケ―ションの必要上、日本人も英語をある程度使えるようにしておいた方がいいということなのです。

 日本人にとっては、日本語が主役で、英語は脇役です。

 更に言えば、日本語の持つ優れた性質を考えると、外来語をそのままカタカナやアルファベットで表すことも大きな損失になります。海外から新しい言葉が出てきた場合でも、日本では、できるだけこれまで既にある言葉の範囲で漢字化していった方が日本語の特徴を生かすことになります。

 そして、これからの日本語は、常用漢字に限定せずに必要な言葉はもとの漢字を生かして使っていく方向で豊かにしていくべきでしょう。

 江戸時代までさかのぼらなくても、明治、大正、昭和初期の文献でも、現代の常用漢字の範囲では読み書きできない言葉が多数出てきます。当時の人々は、それらの漢字も普通の教養として使うことができたのです。

 日本の「国語力」を生かす教育とは、漢字を使うとか、外来語を日本語化するとかいうことだけにとどまりません。もっと根本的には、欧米流の近代教育によって忘れ去られた日本が本来持っていた言葉の教育を復活させることです。

 それは、ひとことで言えば、難しい内容には難しい言葉をあてはめて読むという勉強です。この新しい教育によって克服される旧来の勉強とは、易しい言葉で書かれたものを解くという勉強です。

 「解く」勉強から「読む」勉強へということを、これからの新しい国語教育の流れにしていく必要があるのだと思います。

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国語力読解力(155) 日本(39) 

記事 1336番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
読書と対話と暗唱 as/1336.html
森川林 2011/08/23 19:40 



 読書力には、二つの面があります。ひとつは、読む力、もうひとつは理解する力です。

 小さい子供は、文字を目で見ても理解しにくいので、いったん声に出しその声を耳で聞くことによって、耳から言葉を理解します。これが、幼児期や低学年における音読しながら読む読書です。

 しかし、文字を目で見るだけで理解できるようになると、次第に読む力がつき黙読になってきます。



 ところで、この音読→黙読という読む力のあとに育つのが理解する力です。

 文章とは、もともと現実に存在するものを文章という形で表現したものです(ちょっとややこしい言い方ですが)。

 その文章が表している現実が単純なものであれば、文章を読んだだけですべてが理解できます。しかし、その文章が複雑な現実を表していた場合は、文章を読んだだけでは、理解できないことがあるのです

 そして、学年が上がるにつれて、読む力よりも、この理解する力の方が重要になってきます。



 易しい文章を読むよりも、難しい話を聞く方が考える力がつくのはこのためです。ここに、長文をもとにした家庭での対話の意義があります。

 子供に、難しい文章を読むようにと言っても、言うことを聞く子はまずいません。しかし、子供に、課題の長文を読んでその内容を親に説明してくれるようにと言えば、多くの子は喜んでやると思います。



 さて、難しい文章を理解しようとしているとき、人間の頭の中ではどのようなことが起きているのでしょうか。

 理解とは、いくつかの単語を文法的に組み合わせてひとつの文として理解し、その文を更に組み合わせて文章になったものを総合的に理解するというように積み上げ式に進むものではありません。

 自動翻訳がなかなか進まないのは、このような線形的な発想で文章の翻訳を行おうとしているからです。

 人間の頭の中では、単語や文法よりも、まず文というひとまとまりの現実を理解し、その現実を組み合わせて、より大きな文章という現実を理解するという流れが進行しています。

 つまり、最初に単語の理解があるのではなく、最初に大きなひとまとまりの意味を持つ文の理解があるのです。



 では、この理解力を高める方法はあるのでしょうか。それがあるのです。



 人間の短期記憶は、7つぐらいまでをひとつのまとまりとして把握する力があります。その7つというのは、単語ではなくチャンクというかたまりです。だから、50文字ぐらいの文であれば、一度聞いただけで復唱することができますが、100文字ぐらいになると、一度聞いただけではすぐに復唱することができなくなります。100文字では、チャンクの数が7つを超えてしまうことが多いからです。



 ところが、言葉の森で300字の暗唱をしたり、900字の暗唱をしたりするとき、この短期記憶はどうなっているのでしょうか。

 実は、暗唱した文章においては、チャンクのひとまとまりが大きくなっているようなのです。例えると、普通ではせいぜい10文字ぐらいしか入らないチャンクというバケツのサイズが暗唱によって大きくなり、ひとつのバケツに100文字ぐらいを入れられるようになっているのです。



 暗唱の練習が、文章の理解力を育てるのは、こういう事情があるからです。ただし、大人の場合、暗唱の効果は、理解力よりも発想力が豊かになるという形で表れてくるようです。



 また、これに関連して、家庭での親子の対話も、短い断片的な文ではなく、長い複雑な文として話した方が、子供の理解力が育ちます。

 しかし、そういう対話は、日常生活の中ではなかなか出てきません。日常の対話は、「あれ、とって」「はい、これ」というような短いやりとりで成り立っている場合がほとんどだからです。

 ところが、課題の長文をもとにした対話をすると、自然にそういう長い文章による対話をするようになるのです。



 読書も対話も、ある程度の量をこなすことは大事です。しかし、いちばん大事なのは、その質です。たくさん本を読んで、たくさんお喋りをしたから理解する力や考える力がつくというのではありません。どういう本を読み、どんな話をしたかということが大事なのです。

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暗唱(121) 読書(95) 対話(45) 

記事 1335番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
世の中が大きく変わりつつある予感 as/1335.html
森川林 2011/08/22 20:23 



 書店は、新しい本に出合うのには向いていますが、関心のある分野の本を深く探すのには向いていません。

 テレビや新聞は、大きな問題になるとブレーキが働くために、最新の情報はなかなか手に入りません。

 ブログや掲示板は、多様な情報がありますが、見る人の関心のある分野に固定化する傾向があります。

 こう考えると、現代の新しい情報は、インターネットをもとに書籍として手に入れるのが最も確実な方法になっているようです。

 ところが、そういう状況に恵まれた人はあまり多くありません。学生は時間があるはずですが、本を買うお金がありません。
 社会人は、大学を卒業するまではよく勉強をした人でも、仕事を始めると、それ以上新しい本を読むことに関心を失ってしまう人も多いようです。

 このように、人によって接している情報の範囲が違うため、ひとことで日本の文化状況を言い尽くすことはできません。しかし、私の実感として、日本の出版界は、ここ数年急速に、これまでタブーとされてきた真実の情報を明るみに出してきたという感じがします。それが、3.11以降、更に加速しているようです

 しかし、これは、単に文化的な変化に留まるものではありません。今、世の中が現実の大きな転換点に差しかかっているために、出版物などの文化がそれに先行して変わりつつあるということなのです。
 その現実の転換をひとことで言えば、旧体制の行き詰まりと、新しい未来の模索と言えるでしょう。それが、日本だけで起こっているのではなく、欧米の先進国も含めた全世界的な規模で起こっているところに、今回の変化の特徴があります。

 言葉の森では、今、「森林プロジェクト」という企画を立てています。これは、子供たちの教育のスタイルを根本から変えることを目指しています。
 これまでの教育は、子供たちに知識を覚えさせ、それを再現するためのテストを行い、そのテストの点数で競走し合うような仕組みで行われていました。これからの教育は、子供だけでなく家庭での対話をもとに、知識だけでなく思考を重視し、競争ではなく互いの創造性を発表し合うような形で行われるようになります。
 もちろん、一足飛びにそのような教育が実現するわけではありませんが、世の中の大きな変化の一部として教育をもっと人間的なものに変えることが求められているのは確実です。

 そして、今の世の中の変化の速さを見ていると、変革は、もはや議論をしているときではなく、できることをできるところから実行するときになっているようです。

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森林プロジェクト(50) 

記事 1334番  最新の記事 <前の記事 後の記事> 2024/11/28
facebookとgoogle+の違い as/1334.html
森川林 2011/08/18 20:16 


 言葉の森では、今、教育分野にソーシャルサービスを利用する計画を立てています。その際、ソーシャルサービスの性格の違いが、今後の活用の仕方の違いにつながってきます。そこで、facebookとgoogle+の違いについて考えてみました。

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 facebookの世界のユーザー数は、8月に7億人を超えたようです。(アメリカは約1億5千万人、日本は7月14日の時点で385万人)

 一方、同じような実名制のソーシャルサービスであるgoogle+は、リリース1ヶ月で世界のユーザー数が2500万人に達したそうです。google+は、まだ本格的にサービスを開始していませんが、googleの他のサービスと連動することを考えると、これから更に多くのユーザー数を獲得していくと思われます。

http://www.asahi.com/digital/cnet/CNT201108040020.html



 ソーシャルサービスは、これからも更に発展していくと考えられますが、ブログもmixiもtwitterもfacebookもgoogle+もやるとなると、ユーザーの時間管理が大変です。特に、ほかの人からのコメントがよく入るfacebookやgoogle+は、うまく活用すれば役に立ちますが、場合によってはソーシャルサービスに自分の生活が振り回される面も出てきます。

 新しいメディアが登場したときは、いつでもこのような問題が出てきますが、これは時間が経つにつれて次第に無理のない対応の仕方ができるようになってくると思われます。



 さて、facebookとgoogle+は、実名制で、自分が選んだ相手の投稿がストリーム形式で流れてくるという共通点があります。

 一見、同じようなサービスと思われそうですが、もともとの性格に大きな違いがあります。

 facebookは、友達とのコミュニケーションを中心としたソーシャルサービスです。だから、現実の友人関係がネット上で再現される面が強く、情報の収集や発信という目的は前面に出てきません。

 これに対してgoogle+は、twitterと同じように、自分がフォローしたい相手をいくらでも自分のサークルの中に分類して取り込んでいけます。友人とのコミュニケーションというよりも、関心ある人物の発信する情報を合理的に収集することを目的にしたサービスと言ってよいでしょう。

 それは、googleが目指しているものが、検索サービスの強化だからです。



 facebookには、共通の関心をテーマにしたグループというコミュニティサービスがあります。このグループは発言内容が非公開のものが多く、当然そこで交わされた投稿やコメントは、検索結果には出てきません。発言の目的が友達とのコミュニケーションですから、検索される必要がないのです。

 このようにして、膨大な価値ある情報が、検索の光の当たらないコミュニティに隠れてしまうことを、googleは危惧したのだと思います。検索できない情報空間が増えるということは、検索と連動した広告というgoogleのビジネスモデルを覆すものだからです。

 ところが、facebookにとっては、情報が非公開グループの中に隠れていても、全く問題はありません。facebookの広告は、ユーザーの属性に応じて、非公開グループの中にも正確に表示されるからです。



 だから、google+は、facebookのようなソーシャルサービスで交わされる情報を、検索エンジンの側に取り戻す試みだと言ってもよいでしょう。

 こう考えると、今、一見似たようなサービスに見えるfacebookとgoogle+の今後の発展の仕方の違いが浮かび上がってきます。

 facebookは、ますます友達とのコミュニケーションというコミュニティーの要素を強めていくでしょう。google+は、今後、個人の発信する情報の収集と管理という要素を更に強めていくでしょう。

 このソーシャルサービスの性格の違いが、これからfacebookやgoogle+を利用する際の重要な判断要素になってくるのです。

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「東京、カッペね」の広告。 https://www.mor 12/2
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小学456年生 森川林
 言葉の森は、これまでは作文指導がメインでした。  その後 12/1
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標準新演習算数 あかそよ
3の1はできました。 2は、答えを見るとなんとか理解できま 11/23
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2024年11 森川林
●サーバー移転に伴うトラブル  本当に、いろいろご 11/22
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森川林日記
Re: 入会手 言葉の森事務局
 お世話になっております。  弟さんのみご入会が1週間 11/15
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入会手続きにつ やすひろ
お世話になっております。 個別掲示板を開けませんので、ここ 11/15
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Re: 項目の 1
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中学3年生の作文(71) 高校1年生の作文(68) 高校2年生の作文(30) 高校3年生の作文(8)
手書きの作文と講評はここには掲載していません。続きは「作文の丘から」をごらんください。

主な記事リンク
 言葉の森がこれまでに掲載した主な記事のリンクです。
●小1から始める作文と読書
●本当の国語力は作文でつく
●志望校別の受験作文対策

●作文講師の資格を取るには
●国語の勉強法
●父母の声(1)

●学年別作文読書感想文の書き方
●受験作文コース(言葉の森新聞の記事より)
●国語の勉強法(言葉の森新聞の記事より)

●中学受験作文の解説集
●高校受験作文の解説集
●大学受験作文の解説集

●小1からの作文で親子の対話
●絵で見る言葉の森の勉強
●小学1年生の作文

●読書感想文の書き方
●作文教室 比較のための10の基準
●国語力読解力をつける作文の勉強法

●小1から始める楽しい作文――成績をよくするよりも頭をよくすることが勉強の基本
●中学受験国語対策
●父母の声(2)

●最も大事な子供時代の教育――どこに費用と時間をかけるか
●入試の作文・小論文対策
●父母の声(3)

●公立中高一貫校の作文合格対策
●電話通信だから密度濃い作文指導
●作文通信講座の比較―通学教室より続けやすい言葉の森の作文通信

●子や孫に教えられる作文講師資格
●作文教室、比較のための7つの基準
●国語力は低学年の勉強法で決まる

●言葉の森の作文で全教科の学力も
●帰国子女の日本語学習は作文から
●いろいろな質問に答えて

●大切なのは国語力 小学1年生からスタートできる作文と国語の通信教育
●作文教室言葉の森の批評記事を読んで
●父母の声

●言葉の森のオンライン教育関連記事
●作文の通信教育の教材比較 その1
●作文の勉強は毎週やることで力がつく

●国語力をつけるなら読解と作文の学習で
●中高一貫校の作文試験に対応
●作文の通信教育の教材比較 その2

●200字作文の受験作文対策
●受験作文コースの保護者アンケート
●森リンで10人中9人が作文力アップ

●コロナ休校対応 午前中クラス
●国語読解クラスの無料体験学習