四題話のような題名ですが。(^^ゞ
中国は、輸出主導から内需拡大に経済政策を移行させているようですが、同時に経済がバブル化し国内の矛盾が高まっていると言われています。
一方、アメリカは、強力な財政政策で国内経済に輸血を行っていますが、その大半が金融部門の救済に消費され、実体経済の回復には結びついていないようです。
そして、肝心の日本は、巨大な財政赤字を抱え、これ以上の財政政策を行う余裕がなくなりつつあります。
このような中で、多くの国が、自国の利益のために他国の犠牲を求めるという姿勢を打ち出していけば、それは二度の世界大戦を引き起こした構図と同じです。
他国を犠牲にして自国を助けようと思うのではなく、自国の内部の努力で経済のソフトランディングを目指さなければなりません。特にアメリカ(笑)。
アメリカは、今後、経済の縮小に見合う形で軍事力の削減を行っていく必要があります。そして、民主主義に立脚した農業とサービス業の静かな大国として暮らしていくべきです。アメリカ一国が圧倒的な経済力と軍事力で世界のリーダーを自認していた時代はもう終わりつつあります。
そして、アメリカの軍事力の空白によって生まれる国際社会の無秩序状態は、日本が提唱する新国連によってコントロールされるようになるのが未来の理想の姿です。これまでアメリカの国益のために戦略を練っていた優秀な人材は、新国連で、一国の国益のためにではなく、地球全体の利益のために戦略を練っていくようになるでしょう。
世界の仕組みをこのように変える力は、暴力によってもたらされるのではありません。現代の矛盾に満ちた社会を、新しい理想の社会に変える展望を実際に指し示す国が登場することによって、アメリカも、中国も、そして世界中の国がその国の内部から自分の国を変えていくのです。
その新しい展望を示す国にいちばん近い位置にいるのが日本です。日本が、今後、新しい哲学のもとに、新しい政治、新しい経済、新しい教育を生み出し、それを実現した社会を作っていけば、それは軍事力のような強制によってではなく、文化的な権威によって自ずから世界を変革する力になっていくのです。
昨日の「自然読解力」に続いて、今日は「熱中力」。力の入った記事が続きます。ただ「力」という言葉が入っているだけですが。
つくば万博の1本に1万個も実るトマトの秘密は、ハイポニカ農法とともに、トマトが根を出し始めた時期に過酷な条件を与えることにあったと聞いたとがあります。つまり、根が、がんばろうという初期設定をするのが、出発点になっているのです。
子持自然恵農場のニワトリは、ひなの時期に硬いえさを食べさせるそうです。「胃腸を丈夫にしないと生き残れない」という初期設定をしたニワトリは、成長しても元気に育っていくのです。
日経新聞の「私の履歴書」という著名人の自伝の欄を時々読みますが、多くの筆者に共通しているのは、子供時代に何かに熱中したり、熱中しすぎて脱線したりするエピソードです。それが子供の自然な姿なのでしょう。
ところが現代では、子供時代に、熱中はほどほどにして満遍なくいろいろなことをこなすという生活になりがちです。
読書の仕方でよく相談を受けるのが、子供が同じ本ばかり読んで読むので困る、もっといろいろな本を読んで欲しいという相談です。その気持ちはわかりますが、同じ本を熱中して読み続ける価値をもっと評価してあげたいと思います。子供は、飽きずに同じことをしているときに、熱中力を育てているからです。
この熱中力は、小さいころに大枠ができてしまうような気がします。現代では、いろいろなことをそつなくひととおりできるのがよい子と思われがちですが、子供時代に熱中の経験の少なかった子は、大人になっても熱中しにくくなるようです。大学生や社会人になって、自分が本当に熱中できるものが見つからないという人は、見つからないというよりも、熱中力自体が少ないままなのかもしれません。
もちろん人間は、動物と違って年をとってからでも何度も初期設定をやり直すことができます。しかしやはり、学校から帰ると、暗くなっておなかのすくまで夢中で遊べる無邪気な子供時代の方が熱中力は育てやすいのです。
これに関連して、集中力というものがあります。
よく子供が小さいころ、遊びに熱中していて、ご飯の時間になっても遊びをやめないときがあります。
スケジュールどおりに生きることに慣れている大人は、つい遊びを中断させて食事をさせようとします。しかし、こういうときは、その子供の遊びの方を優先させて、遊びが自然に終わるまで待っていてあげた方がいいのです。
スケジュールに沿って生きることは、社会生活の中で自然に身につけていきます。しかし、ものごとに集中して心ゆくまでその時間を味わうというのは、子供時代でなければなかなか育てられない能力だからです。
人間には、自然治癒力というものがあります。仕組みは……自然に治るということです。(説明になっとらん)
例えば、風邪を引きます。熱が出て、咳が出て、頭痛がして、体がだるくなり、仕方ないので安静にしていると、だんだん治ってきます。ここで無理に症状を抑えると、かえって長引く場合もあります。つまり、風邪の症状をしみじみと味わっている間に、体の中に自動修復機能が働いて治ってくるということです。これまで何回もあった氷河時代を乗り越えて何十万年も生きてきた人類には、それだけの自動調整機能が備わっているのです。
同じことは、社会にもあてはまります。それが民主主義です。
みんなが自由に意見を言い合えば、脱線する人も、足を引っ張る人も出てきます。しかし、いい意見だけにしぼって悪い意見を排除すると、かえって自動修復機能が働きません。変な意見が出るからこそ、自然にいい意見にまとまってくるのです。
比嘉照夫さんの開発したEM(有用微生物群)の理論も似ています。いい微生物だけ集めるのではなく、悪い微生物も、よくも悪くもない微生物も一緒にまとめることで、より大きな効果を発揮するという仕組みです。
話が脱線しましたが。
さて、勉強も似ています。「読書百遍意自ずから通ず」という言葉があります。繰り返し読んでいると自ずからわかってくるというのです。
これは、読書の方法論がなかった時代の読書法なのでしょうか。確かに現代は、付箋読書、傍線読書、速読、速聴、アニマシオンなどいろいろな方法論があり、それぞれ効果があります。しかし、その根底にあるのは、「読書百遍意自ずから通ず」の読書法なのです。
繰り返し読んでいると自ずからわかるというのは、人間には自然読解力があるからです。
その仕組みは、ここでまた、……自然にわかるということです、と書いてしまうと芸がないので、もう少し深く考えてみると、次のような流れがあるからだと思います。
まず、読書で「わかる」「わからない」というとき、そのわかり方は相対的なものです。「わかる」80%で「わからない」20%ぐらいの本は、読んでいておもしろい本でしょう。「わかる」99%で「わからない」1%の本は、わかりすぎておもしろくない本です。
例えば、おじいちゃんに何度も聞かされる同じような自慢話を考えてみるとわかります。細部まですっかりわかった話を聞かされると、一応話は聞いていてもおもしろくも何ともありません。
しかし、ここに、笑いや映像が入ると、そのつど面白く聞くことができます。落語の世界もそうです。更に、お笑い番組、テレビ、ゲーム、漫画の世界も、このわかってはいても何度も繰り返し聞いたり見たりできます。漫画をいくら読んでも読解力はつかないというのは、それが多くの場合、見た目の変化はあっても本質的には同じわかった世界に属しているからです。
問題は、「わかる」50%「わからない」50%ぐらいの本です。こういう本は、難しい本、わかりにくい本という意味でつまらない本と呼ばれます。しかし、こういう本を何とか1回読み終えると、わかる度合いが少しずつ広がっていきます。
感覚的に言うと、1回目には「わかる」50%「わからない」50%だった本が、2回目に読むときには、「わかる」51%「わからない」49%ぐらいになり、3回目に読むときには、「わかる」55%「わからない」45%ぐらいになり、4回目に読むときには、「わかる」70%「わからない」30ぐらいと次第にわかり方の度合いを高めていきます。S字曲線のようにわかっていくと言ってもいいと思います。わかるとわからないの中間にあるグレーゾーンがわずかずつ明るい方向にシフトしていくのです。
なぜこうういうことが起こるかというと、ある本を読んで新たにわかったことが1%増えたことによって、その本の理解度が増すだけでなく、その子がそれまでに読んだすべての本の理解度がその1%分上昇するからです。
私自身の経験で言うと、小さいころ初めてひらがなが読めるようになったころのことだと思いますが、漫画を読んでいて、次のような場面に出合いました。主人公の少年が、オットセイか何かに「海の中にある○○をさがしてきてくれないか」と頼むのです。すると、オットセイは二つ返事で「あさめしまえだ」と言って海の中に飛び込みます。私はこれを読んだときに、なぜここに「あさめしまえ」が出てくるのかわかりませんでした。「朝飯前=簡単」という意味の言葉を知らなかったです。それは、ずっと私の中に疑問として残りました。
そして、そのあと何日後か何年後かはわかりませんが、朝飯前の意味を理解する日があったのだと思います。すると、小さいころに読んだその漫画の情景の意味があらためてわかり直す形で理解できたのです。
一つのことがわかると、それに関連した別のことがわかり、その別のことがわかると、更にそれに関連した別のことがわかり、その別のことがわかると、更にほかの別のことがわかる、というように、わかり方には、経済学の乗数効果に似た作用があります。
読書力をつけるには、まず本を読むこと、読解力をつけるには、まず難しい文章を読むこと、というのは、このような背景があるからです。自然読解力は、読解の方法がなかった時代の未開の読解法ではありません。あらゆる読解技術の根本にある読解の方法なのです。